第1章 大学1年生①

 

3年前の3月、僕らは大好きな母校・湘南高校を卒業した。湘南高校では、言葉通りかけがえのない数多くの経験をした。決して楽しい思い出だけではなく、むしろ泥臭い記憶の方が多いが、それらは全て紛れもない青春だった。そんな日々も終わりを迎え、それぞれの道を歩むこととなった。


4月になり大学に入ったものの、僕は早々に新生活のスタートに失敗した。膨大な授業数、大学の広さ、何処へでも行ける行き先、人の多さ……。多すぎる選択肢故に何をすれば良いか分からなくなってしまったのである。その中からやっとの思いで選び取ったとしても、その先でまた失敗の連続だった。アルバイト選びをミスって危うくブラックなバイトに就きそうになった。その後マクドナルドでバイトを始めるが、教職や単位非算入で授業を取りすぎてしまい、なかなかシフトに入れず要領を覚えるのにめちゃくちゃ時間がかかってしまった。その間一緒に働いていた人たちにたくさんの迷惑をかけ、罪悪感に苛まれた。さらに1時間に1回の手洗いで、高校卒業の前後で発症した手の荒れが悪化してしまい、結局半年で辞めることになる。サークルでは、ライブを見学してその場のノリで入会を決めてしまった軽音サークルを、後になってタバコと轟音がトラウマになってしまい2日で退会。鉄道研究会にも入ったが、他の会員の圧倒的な知識量と雰囲気についていけず、あまり顔を出すことなく1年で辞めてしまうことになる。ようやく見つけた居場所・映画研究会でも、圧倒的な知識の差に苛まれることになった。僕は高校から行っていた映像制作を続けたくて映研に入会したので、他の会員のように映画好きが高じて入ったわけではなかった。それ以前は映画を年に1本観るか観ないかという程度だった。そのため他の会員の映画話に全く付いていけなかったのだ。さらに僕が放送部時代に出場した年の、NHK全国放送コンテストの全国3位が映研にいた。僕は県3位止まりだったから完全に上位互換に見えた。僕は嫉妬し、同時にスランプに陥った。それでも映研だけは辞めなかったのは、話の出来ない僕でも温かく接してくれた同期の皆と、高校に近い自主性を重んじる雰囲気、そして映像がやりたくてこの大学に入ったのだから、やるしかないという執念だったと思う。


大学生活への希望の喪失に比例するように、僕は高校でのノスタルジー、いやホームシックを加速させていった。だから文化祭で久々に同期と再会した時、心の底からあの日々に戻りたいと思った。でも大学生デビューを果たして大幅に変わった同期や、生き生きと高校生活を謳歌していた名前の知らない後輩の姿を見て、あの日々はもう二度と戻らないということも同時に突き付けられた。


新入生が先輩のサポートを受けながら、作品を1本監督できる映研の制度・新入生企画。僕はこの準備を進めるうちに、少しずつスランプから脱却していった。何をしたらいいか分からない、先の見えないこの状況をヒントにして脚本にしたのだ。ただサポートしてくださった先輩には申し訳ないけど、あまり良いアドバイスを頂けなかったこともあって、作業は実質一人で行った。高校の時は学校内で撮影していたが、大学では逆に学校内で撮影できず、学校外に広がったことでここでも選択肢の多さに悩まされた。このように高校の時と勝手が全く違ってめちゃくちゃ大変だった。しかしがむしゃらに作業を続け、夏休みに撮影を実施。人手が本当に少なくて監督・主演・撮影・音声を同時に行った時もあった。高校の時も監督・主演・撮影・音声・編集などを兼任していたから、この点は感覚的に近かった気がする。そうして完成させたのが、大学生として最初の監督作『オンリーワン』である。元号が令和に変わるタイミングで当時の安倍首相が引き合いに出した「世界に一つだけの花」の歌詞になぞらえたストーリーで、映画研究会に入会した「僕」は自身の作品に心無いコメントが付いたことで他の作品を貶すようになってしまうが、「先輩」と出会うことで、作品を作る上で賞よりも大切なものを思い出すというものだ。今思えばNコン全国3位の彼への嫉妬がすごく投影されている(笑)。この作品を新入生企画上映会や早稲田祭の映研上映会で流してもらったところ、他の会員から多くの共感を得られた。僕はそれがものすごく嬉しかった。映研の一員として認められたような気がした。ここにいて良いんだと思えた。


もう1人、この作品を評価してくれた人がいた。同じ高校出身のH君だ。軽音楽部で一緒にGReeeeNのコピバンを組むなど元から仲が良かったが、同じ大学・学部に進学したことを機にキャンパスで頻繁に会うようになった。彼は大学に入ってからなぜかジブリに目覚め、ジブリに関する話を沢山してくれた。僕も授業で習った映画の話をして、映画を中心とした表現への関心を高め合った。病み期に突入していた春学期の僕にとって貴重な友達の1人で、心折れずに春学期を終えられたのはH君のおかげだと言っても過言ではない。秋学期が始まり、H君に『オンリーワン』を観せたところ、「今隣にいる人がこれを作ったと思うとすごい」と言ってくれた。それからH君は僕の創作活動に深い興味を示してくれて、僕も新作の脚本を書くたびにH君に見せ、フィードバックをもらった。

 

H君とはたくさんの話をしたが、その中でもとりわけ話題になったのが、作品における「考える余地」である。作品の持つテーマや答えのない問いについて考えることで、世界が全く違って見えるようになり、究極的はより良い人生を送ることに繋がるのではないか、というのが僕の考えである。そのためには作品に考える余地・余白を残す必要があり、受け手(観客)の解釈ができるだけ同じになるようにする「中心化」ではなく、それぞれの受け手に解釈を委ねる「脱中心化」の作品が重要であると考えた。「あなたへのおすすめ」のように、現代では我々は自分の見たいものに囲まれて生きている。それは幸福なように思えるが、一方でSNSにおける誹謗中傷など、逆に見たくないものへの拒否反応がとても過敏になっている。そのような問題を解決するためには、自分とは別の考えに触れる訓練が必要があり、その1つとして考える余地のある映画や作品が機能するのではないかと僕は考えた。ただ同時に、今まで自分は見たいものに囲まれた中で生きてきたように思えてしまった。学校という閉じられた制度に甘んじ、無批判に過ごしてきたことを反省した。だから頭の良い学生が集まった閉塞的なコミュニティである湘南高校のことも、心の中で少しだけ批判した。


僕が上記のような思想に至った背景には、春学期に映画論の授業でヌーヴェル・ヴァーグを知ったということがある。ヌーヴェル・ヴァーグとは、1950年代から60年代にフランスで台頭した映画の革新運動であり、それまでのハリウッド映画の撮影方法を根本から覆す技法で全く新しい映画を作り出した人たちのことである。僕はその中でも、フランソワ・トリュフォー監督の『大人は判ってくれない』という作品に非常に感銘を受けた。「あなたならどうする?」と言わんばかりに答えのない問いを強烈に突き付けられ、唐突に映画が終わる。答えが提示されることはなく、解釈は完全に観客に委ねられている。今まで映画は単なる娯楽と思っていた僕にとって初めての経験だった。それ以降、僕とH君は考える余地のある表現の世界にどっぷりと浸かっていくことになる。

 

続く