第1章 大学1年生②

 

夏休みに、僕は『珈琲のしみ』という作品の撮影にスタッフとして参加した。この作品は早稲田に複数ある映画サークルが合同で主催する、早稲田映画まつりという映画祭の企画として制作されたものだ。撮影は房総半島の民宿にて泊まり込みで行われたが、その撮影は困難を極めた。監督はカメラワークや演技をスタッフやキャストに任せるスタイルだったために現場はかなり戸惑った。大雨に見舞われる中、先輩にそこそこ距離のあるコンビニまで買い出しを任されたこともあった。時間が押して駅までダッシュし、たった一駅のために特急に乗ることになったり、お祭りの中をゲリラで撮影したりと、過酷な現場だった。これよりきつい現場は探せばいくらでもあると思うが、当時の僕にとってはかなり大変だった。しかしプロの役者さんと初めて接することができたり、本格的な自主映画の現場を知ることができたりと、学びも多くあった。またこの時できた人脈が次回作のキャスティングに生きるなど、以降の自身の映像制作に繋がる非常に有意義な経験となった。

 

完成された『珈琲のしみ』は、年末に小野記念講堂という大学の講堂で行われた早稲田映画まつりで上映された。映画館でこそないものの、作品が大きなスクリーンで流れるということの特別感を知った。本選出場作品の中には長編もあり、学生映画でもここまでできるのかという衝撃が今でも鮮烈に残っている。作品上映後にインタビューが行われ、登壇した制作陣の姿が輝いて見えたのも印象的だった。またコメントは辛辣だったが、奥田瑛二や城定秀夫などの第一線で活躍する方々がゲスト審査員として作品を観てくださることにとても驚いた。『オンリーワン』は著作権ガン無視で制作したため出品できなかったので、来年の映画まつり出場が自身の目標となった。

 


少し前に遡るが、『オンリーワン』を上映していた頃、同じように新入生企画で監督された作品が次々と出来上がっていた。僕は同期の作った作品を観て、圧倒的なセンスと思いもよらないアイデアの連続に衝撃を受けた。金魚鉢を抱え、中の金魚に「お兄ちゃん」と呼びかける女子高生の物語、リコーダーを吹くと人が死ぬ物語、フナムシに監視されているという強迫観念に囚われる男の物語など、一体どうやったら思い付くのだろうかと思わされるものばかりだった。おそらく膨大な知識量の差、つまり今まで観てきた映画の数の差によるものだと思われる。僕は自信を失い、またしてもスランプに陥りそうになったが、『オンリーワン』のように穏やかな人間ドラマを描く人が意外といなかったことから、そこに活路を見出すことができた。冬休みに向け、僕は早速新作の脚本を書き始めた。しかし当時の自分は、他の映研の会員よりも映画を全然観ていないということを自覚しながらも、たくさん作品を観たり勉強したりするなどの努力をサボっていた。そんな怠惰な自分への戒めを込めた脚本を執筆した。それが後に2本目の監督作『似た者同士』となる。

 

この『似た者同士』という作品に多大な影響を与えた2本の映画がある。諏訪敦彦監督の『2/デュオ』と、今泉力哉監督の『愛がなんだ』である。後になって分かるのだが、特に前者の方の影響が大きかった。『2/デュオ』を観たのは諏訪監督自身が早稲田で開講していた「映画監督と学ぶ映像表現」という授業の教場である。この作品は恋人同士の男女2人を描いたものであるが、演技は全て台本なしの即興演技で行われ、物語の途中でなんと監督が登場人物に、どうしてあのような行動を取ったのかとインタビューする場面があるというとても前衛的な作品だ。諏訪監督は前述のヌーヴェル・ヴァーグとの繋がりが深く、『大人は判ってくれない』の主演を務めたヌーヴェル・ヴァーグの代表的な役者ジャン=ピエール・レオーとタッグを組み、『ライオンは今夜死ぬ』という映画を監督した。諏訪監督のスタイルである即興演技はヌーヴェル・ヴァーグの特徴の一つでもあり、感銘を受けた僕は自身の脚本においても大部分の台詞を決めず、即興を取り入れることにした。影響を受けたもう1本の『愛がなんだ』は、現代の日本映画を牽引する監督の一人、今泉力哉による作品である。ある男性のことが盲目的に好きな主人公の女性が、どうにかして彼と一緒にいようと周囲を巻き込み暴走するというもの。今泉作品に共通する特徴だが、映画内で起こっている出来事は、映画として観客席という安全地帯から観る分には何とも面白いが、ひとたび自分にも重なる部分があることに気づいてしまうと、途端に他人事ではなくなり笑えなくなるのだ。僕は『愛がなんだ』で初めてそのような体験をし、心の内を見透かされたような気がして戦慄した。だから『愛がなんだ』はとても好きな作品ではあるが、同時にもう二度と観たくない作品でもある。そんな作品たちに影響された『似た者同士』だったが、キャスティングに苦戦し年内の撮影は困難となり、春休み以降に持ち越しとなった。しかしこの時はまだ、世界中が未曾有の事態に陥り、撮影が夏まで延期されるということは知る由もなかったのである。