第3章 大学3年生②

 

企画を中断した僕は、お母様に意図を伝えられなかったのは僕の監督・脚本家としての技術が足りないからだと勘違いし、映画学校に入学した。問題の本質から目を背け、表面的な問題に逃げたと言わざるを得ない。社会的な評価を得られていないので、映画学校を卒業することで分かりやすい実績が欲しかったということや、コロナで留学の資金が浮いたということもあるが。その映画学校では受講生全員が短編を1本監督できるということで、僕は新作に取り掛かった。以前から僕は、ティッシュ配りをしている人の話を書けないかと考えていた。僕の最寄り駅ではティッシュ配りや路上の弾き語り、街頭演説や募金活動などが日常茶飯事である。その光景を見て、当たり前だがティッシュを配っている人にも夢や生活などがあって、他に目的があってティッシュを配っているのではないかと考えた。そこから着想を得て書き下ろした新作が、『ティッシュ配りの歌』である。駅前でティッシュ配りをしている小野は、近くで行われる路上ライブを密かな楽しみにしていた。ある日、いつものようにライブを聴きながら仕事をしていると、シンガーソングライターの武田が今日がラストライブだと告げる。ライブ後、小野は全く売れず意気消沈している武田に話しかけ、ライブを続けてもらうようにある作戦を実行する……。10分前後の短編というルールの中で制作したが、8分という制限の中でドラマを作っていた高校時代の感覚を思い出しながら作ることができた。


この作品のキャスティングにあたって、ティッシュ配りの青年・小野役は早大映研から起用したが、シンガーソングライターの武田役を誰にするか悩んだ。その時に力を貸してくださったのが、バンド「GOENDz」のボーカル・GOENDさんと、ギター・神田龍司さんだった。2019年の末、僕は自身が主催するライブイベントの企画を構想していた。というのも、高校時代に所属していた軽音楽部では、箱ライブという実際のライブハウスで演奏するイベントが時々行われていた。現役時代にそのイベントに出ることができず、軽音サークルも辞めてしまった僕はどうしてもライブハウスに立ちたいと思い、ならば自分でイベントを企画してしまおうという思考に至った。そして後に『似た者同士』に主題歌を提供していただくことになる先輩バンド・響々(ゆらゆら)の方を介して、Live House 湘南bitの方を紹介していただいた。その時やり取りさせていただいたのが、湘南bitのブッキングマネージャーも務めている神田さんだった。結局このイベントはコロナによって断念してしまったが、湘南bitのクラウドファンディングに参加するなど、細々と関係は続いていた。そして『ティッシュ配りの歌』を制作するということで、神田さんに出演を依頼した。しかし神田さんからはその時、少々立て込んでいるとのことで出演はできないと伝えられた。ただ、代わりに自分が所属しているバンド・GOENDz(当時はGOENDs)のボーカリストを紹介すると言ってくださり、それがGOENDさんとの出会いだった。GOENDさんは映画が大好きということで出演を快諾してくださり、さらには脚本から着想を得て、なんと主題歌まで作ってくださったのだ。素人の僕が作った脚本に本気で向き合ってくださり、誰に言われるでもなく主題歌まで作ってくださったことは、何よりも嬉しかった。僕もGOENDzさんの曲を聴いているうちにすっかりファンになった。そして作品に合いそうな数曲のインストゥルメンタルver.を神田さんに作っていただき、挿入歌として使用させていただいた。初日の撮影終了後、GOENDさんが路上ライブを披露してくださった。僕ら撮影スタッフが聴き入っていると、そこに1人の女子高校生が通りかかった。その女の子は初めはイヤホンをしていたが、路上ライブに気付くとそれを外し、だんだんとこちらに歩み寄ってきた。そして足を止め、夢中で曲を聴き始めたのである。ライブ後、女の子は投げ銭を入れ、GOENDさんに「めっちゃ良かったです!」と興奮気味に話しかけていた。その様子を見て、僕はこの女の子のためにこの映画を作っているのかもしれないと思った。僕はずっと、自分の作品で誰かの人生をより良くすることができたらと思って創作活動をしてきた。あの女の子が足を止めたのは100%GOENDさんの力だが、僕がこの作品を作ることがなかったら女の子はGOENDさんと出会うことがなかったと思うと、この作品を作って本当に良かったと心から感じた。


ただ関わってくださった方々には本当に申し訳ないが、ここでも正直に言うと、作品自体にはあまり手応えを感じることができなかった。これは完全に僕の責任だ。役者の方々とあまりコミュニケーションをとっていなかったこと、脚本スキルがあまり向上しないまま執筆してしまったこと、制作期間が短かったために脚本の詰めが甘かったことなどが原因として挙げられる。もしこれを読んでいる人の中で、携わってくださった方がいたら、重ね重ねお詫びします。本当に申し訳ない。ただこれらの失敗や、最高の主題歌をつけていただいたこと、素敵な出会いがあったこと、小道具を細部までこだわったことで講師の先生が褒めてくださったことなどは、自分にとって非常に大きな経験となった。また11月には、同じく映画学校の課題の一環で『あいも変わらず』という作品を監督した。「みつける」をテーマにした1分半の短い作品だが、僕にとってはとても印象深い作品である。なぜなら、一度手違いで全ての撮影データを削除してしまったからだ。最初から全て撮り直しせざるを得なかった僕は、今後は必ずデータのバックアップを取ることを心に誓った、はずだった。その後、次回作で全く同じミスをやらかしそうになるのは、また別の話。嗚呼、なんて学習能力の低い人間なんだ僕は……。

 

3年生になるとゼミが始まり、僕はドラマや映画などの映像作品を分析するゼミに入った。授業が一緒だった知り合いが何人かおり、とても居心地が良かった。作品分析をすることで優れた作品の深さや工夫を知ることができ、得た知識を自身の映像制作にも取り入れようと試行錯誤した。そして何より、オープニングトークという、トピックを一つ決めて全員で議論するという時間がとても楽しかった。答えのない問いについて考えるだけでなく、考えたことを発信し、自分と全く異なる考えを聞くことができる非常に有意義な時間だった。元同級生の一件で落ち込んでいた僕にとって、ゼミは大きなモチベーションとなった。


僕は『ティッシュ配りの歌』を早稲田映画まつりに出品した。1次審査を突破し、前作のリベンジを果たすことができたものの、2次審査で落選し、またしても本選出場の夢を叶えることができなかった。さらに僕は、この年の映画まつりの上映担当を担っていたので、自分の作品を落とした映画祭のために働くという屈辱を味わうことになってしまった。無論業務には責任を持って取り組んだが、実のところ、ここまで来たら大成功させてやるという意地が大きかった。特にコロナ禍の影響でギリギリまで有観客開催の可否が不透明だったため、初のリアルタイム配信をすることになり、僕はその担当だった。僕は配信技術を1から学び、1つ1つ手探りで作業を進め、何度もテストを重ねて開催直前まで調整を重ねた。その結果有観客で行うことができたまつりも、会場に来られない多くの方々が観てくださったリアルタイム配信も、無事大きなミスなく終えることができた。豪華なゲスト陣にも恵まれ、近年稀に見る大成功を収めた。ただそのゲストが解禁された時、僕は見覚えのある名前に目を丸くした。そこには、拙作『似た者同士』に多大な影響を与えた映画の一つ、『愛がなんだ』を監督した今泉力哉がいたのだ。しかも今泉監督は、僕がまさに通っていた映画学校のOBだった。僕は今泉監督に自身の作品を観てもらいたかったという思いが湧き上がり、本選に出場できなかったことを激しく後悔した。しかし実は、その思いは意外な形で達成された。映画まつりでは毎回、オープニング映像として本選出場作品の一部分をまとめた短いビデオを流している。そしてこの年のビデオは僕が編集したのだった。結果的に今泉監督は僕の編集した映像を観たことになったのだが、それで到底満足できるわけがない。むしろ映画まつりの本選で流れた僕の最初の作品が、本選出場作品のハイライト映像になってしまったという事実は、悔しさ以外の何物でもなかった。大成功だった映画まつりだが、僕にとっては苦々しい記憶となった。