おわりに

ここまでお読みいただいた方、本当にありがとうございました。ブログという形で発信するとはいえ誰も読まないだろうなと思っていたので、読んでいるという報告を友達からもらった時はとてもびっくりしました。

 


今回このブログを書いた理由は3つあります。

 


1、自分が考えていたことを知ってほしかった

1年生の章でも書いたのですが、僕は親友のH君と映画や表現について、あるいはそこから派生して色々なことを話してるんですが、それを2人の間だけで留めておくのが勿体ないという思いがありました。とはいえラジオにするほどでもないし、H君はそもそも発信することに乗り気ではなかった。真面目な話過ぎて需要もないと思うし(笑)。なので読みたい人だけが読めるブログという形で、H君に許可を取った上で発信することにしました。内容そのものとしてはH君と話したことについてあまり触れなかったけど、僕の3年半にはH君と話したことが多分に影響を与えています。僕の大学生活を通して、H君と話したこと、僕が考えていたことを知ってもらいたくてブログを執筆しました。あとは亡くなった同級生の一件など、自分一人で抱えているのが辛くなってしまったことを誰かに知ってもらいたかったというのもあります。

 


2、自分の創作に対する考えを知ってほしかった

学生映画では、賞に入選するなどの余程のことがない限り、どういう思いで制作したか、作品にどういう意図を込めたかなどを話す機会がありません。残念ながら僕は賞を得ることができなかったけれども、自分なりに考えを持って制作してきたつもりです。そういうことを話すのは野暮かもしれないけど、一度伝えたくて、知ってほしくて書きました。

 


3、自分が考えていたことを残しておきたかった

多分これが一番大きいと思います。この3年半で自分が考えてきたことを文章にすることで、自分の中で整理をしたかった。就活をしていく中でこれまでの学生生活を振り返ることが多かったので、一度文章にして振り返りをしたかったというのもあります。また最後の章でも書きましたが、いつか亡くなった同級生の映画を作る時に、この3年半で感じたことや考えたことを思い出すためにも、文章という形で残したかったのです。

 


結局自分のためかよ、っていう感じですよね。この文章を読んで傷付く人もいるかもしれないのに。本当にすみません。でも学生生活最後の年の最後の我儘ということで、どうか許してもらえないでしょうか。

 


高校生活で経験した青春があまりに青すぎて、今の生活がそれと違いすぎることに嫌気がさすことが多々あったけれど、振り返ってみると、この3年半も悪くなかったと、これはこれで第2の青春だと今は思います。この日々を送ることができたのも、こんな自分勝手で我儘な僕に関わってくれた皆さんのお陰です。僕は皆に生かされています。本当にありがとう。引き続き、仲良くさせてください。

 


※このブログそのものは残しますが、別件で近々Twitterの鍵を外す可能性があるので、その時にリンクの載ったツイートは削除します。

第4章 大学4年生②

 

5月の頭に、昨年開くことができなかった高校の同窓会が開かれた。僕は昨年の同窓会ビデオを少し編集し直し、2022年バージョンとして上映した。笑いやどよめきなど、直接反応が見られたのがとても嬉しかった。久々に友人たちと話ができ、とても楽しいひと時を過ごすことができた。ただ、亡くなった同級生について話を聞こうとした中で、返事が返って来なかったある人とは目を合わせることができなかった。大学生として最後の学年が始まり、僕はあの企画について結論を出さなくてはいけない時が迫っていた。僕は言葉を選び、お母様との橋渡しを担ってくれていたKさんにも見てもらいながら、お母様に文章を書き、送った。「在学中に制作することは断念しようと思います」。それが僕の結論だった。お母様を怒らせてしまったあの日から、僕はずっとこの企画をどうすれば良いのか考えてきた。今の僕には何が足りなくて、この企画を実現させるには何をすれば良いのか。僕には色々なものが足りていないけど、一番は「他者性」だと思う。相手の立場になって考える力。他者への想像力。「考える余地」によって育まれるに違いないと、他でもない僕が考えていたもの。それが僕には足りなかった。そんな状態ではこの作品を撮ることはできない、そう考えた。他にもコロナによって思うように働けず、十分な制作資金を集めることができなかったこと、脚本が満足のいくように改稿できなかったことなどもあって、たとえ無理やり実現させたとしても、納得のいく作品にすることはできず、それは自分だけでなく、元同級生やお母様をまたしても裏切ることになる。それだけは絶対に避けたいから、中止させてほしいとお母様に伝えた。ただこの企画は僕の一生の課題として胸に刻み、いつか僕が、今なら作れるという時が来たら必ず実現させるということも同時にお伝えした。数日後、お母様からご連絡を頂き、僕は近いうちにお線香を上げに伺うことを約束した。

 

 

 

 


……本当は、ずっと前から分かっていた。今の僕にはできないと。他者性もそうだが、僕には覚悟も足りていなかった。本気で映画制作に向き合う覚悟、人の死に向き合う覚悟、人と向き合う覚悟、自分自身と向き合う覚悟が。それがなかったから脚本にも手を付けなかったし、コロナを口実に資金を貯めることもしなかった。新作に着手したのも、在学中に実現は無理だと分かったからだった。僕は逃げた。あらゆるものと向き合うことから逃げた。僕は弱くて狡い、最低な人間です。


本当にたくさんの間違いを犯し、たくさんの人を傷つけてきた。取り返しのつかないことをした。申し訳ない。でも僕はようやく、自分に何が足りなかったのか、何がいけなかったのかが少しづつ分かってきた。これからは色んなものに真剣に向き合い、少しづつ足りないものを得て、罪を償っていきたいと思う。そしてその先で、再びこの企画に向き合う覚悟ができた時、必ず実現させたいと心から思っている。

 

 

 

 


さて、この一連の文章を書いている途中、僕はあることに気付いた。僕は自分の作品が訴えているメッセージを全く実現できていないということに。賞よりも大切なものがあるということを描いた『オンリーワン』を作っておきながら、賞に囚われて暴走するという有様。夢を叶えるための努力をしないと、取り返しのつかないことになるという自戒を込めた『似た者同士』を作ったにも関わらず、その後も努力せず、自主映画の道を諦めることになった。自分が作品で伝えたいことを一番達成できていないのは他でもない自分ではないか。本末転倒とはこのことである。だから今度こそ自戒となるように、この3年半を文章に残しておく。間違いに気づき始めた僕が今後再び道を誤りそうになった時、この文章が未来の僕を正しい道に戻してくれることを願って、この文章を締めようと思う。またもしこれを読んでいる方がいらっしゃったら、未来の僕が道を踏み外しそうになった時は、この文章を引き合いに出して遠慮なく叱ってください。お願いします。

第4章 大学4年生①

 

僕の通っていた映画学校は前期がベーシックコース、後期がアドバンスコースに分かれており、ベーシックでは1人1本監督ができるのに対し、アドバンスではシナリオコンペに通った作品のみが制作される。僕は親友のH君と共同脚本という形で執筆しコンペに臨んだが、最終選考で落選してしまった。その結果をH君に伝えると、「1ヶ月待ってくれ」と言われた。まさかとは思うが、彼は脚本でも書いているんじゃないかと考えた。予感は的中した。彼はきっちり1ヶ月後、書き下ろしの脚本を送ってきたのだ。おいおい、これから就活も本格的に始まるこのタイミングで脚本なんて送ってくるなよ……と思いながらも一応読んでみた。内容はコロナ禍を直接の題材にしたものだった。直すべきところはあったが、悪くなかった。僕の胸が少し高鳴っていることが分かった。僕はH君に電話をし、脚本に関して様々な意見を交わした。こうして僕は、高校生ぶりに他の人の脚本を監督することに決めたのだった。


映画学校は4月初頭に卒業した。映画学校については色々と思うことはあるが、振り返ってみると良い経験だったと思う。たくさんの失敗をしたが、そこから得られる学びもとても多かった。何より自分にとって一番大きかったのが、人の縁を作ってくれたことだと思う。ベーシックの講師を務めてくださったプロの映画監督とは、他の受講生の方々と共に食事をさせていただき、そこで制作に関する様々なアドバイスをくださった。第一線で活躍されている方から頂けるアドバイスはまさに目から鱗だった。ベーシックの短編制作課題で作った『ティッシュ配りの歌』では、GOENDさんを始めとする素晴らしい出会いに恵まれた。またアドバンスの課題として作り、全データが消え再撮影をするという事態に陥った『あいも変わらず』も、思わぬ形で様々な縁をもたらしてくれた。再撮影日に予定が合わなくなってしまった役者の代わりに、急遽劇研(演劇研究会)に所属している知り合いの後輩に出てもらった。その後早稲田小劇場どらま館の方から映研に、学生映画をどらま館で上映するというイベントの開催を提案された。劇研もどらま館をよく使っており、折角劇研の人に出てもらったからということで、そのイベントで『あいも変わらず』を上映させてもらったのだ。会場でもたくさんの映画サークルの人と話すことができ、さらにそこで知り合った人に誘われ、高円寺シアターバッカスにて開かれた「日本学生映画祭」にて拙作数本を上映させてもらうという機会も得られた。そしてもう1人、他の受講生の現場で知り合った役者の方とも、その後縁によって再び巡り合うことになる。


映画学校を卒業した僕は、H君が書いた脚本で新作を本格始動させた。とは言っても撮影時期の関係で就活と両立して行わなければいけなかったので、去年の映画まつり出場作品のスタッフにプロデューサーとして入ってもらうなど、たくさんの人の力を借り、分業体制で準備に取り掛かった。キャスティングはオーディションで行ったが、その中に見覚えのある人がいた。その方がまさに、映画学校の他の受講生の作品に参加していた役者さんだった。その方はアドバンスにおいても別の班の作品に参加しており印象に残っていた。選考を重ね、その方にお願いすることに決まった。縁ってすごい。今作はこのように、今まで関わりのあった人たちを中心に参加してもらったが、初めての出会いも少なくなかった。特にオーディションに応募してくださったとある方にとても助けられた。その方はこの企画の趣旨に共感し、キャストとして参加できなかったとしても、どんな形でも良いので参加させてくれないかという申し出をしてくださったのだ。この企画にとても熱意を持ってくれるのは僕としてもとても嬉しかったので、話を伺い、スタッフとして迎え入れた。結果的にその方は僕とカメラマンと役者の方と共に全撮影日に参加してくださり、とても献身的に携わってくださった。もはやこの方がいなければ撮影は成り立たなかったのではないかと思うくらいに貢献してくださった。過去一番と思われるくらいに大変な制作となり、それ故に就活も散々な結果となったが、無事全撮影を終えることができた。この『マスクを外して』という作品は現在編集中である。どのような作品になるか、また観る人にどのように受け取られるか正直全く分からないが、良い作品になっていることを願う。

第3章 大学3年生②

 

企画を中断した僕は、お母様に意図を伝えられなかったのは僕の監督・脚本家としての技術が足りないからだと勘違いし、映画学校に入学した。問題の本質から目を背け、表面的な問題に逃げたと言わざるを得ない。社会的な評価を得られていないので、映画学校を卒業することで分かりやすい実績が欲しかったということや、コロナで留学の資金が浮いたということもあるが。その映画学校では受講生全員が短編を1本監督できるということで、僕は新作に取り掛かった。以前から僕は、ティッシュ配りをしている人の話を書けないかと考えていた。僕の最寄り駅ではティッシュ配りや路上の弾き語り、街頭演説や募金活動などが日常茶飯事である。その光景を見て、当たり前だがティッシュを配っている人にも夢や生活などがあって、他に目的があってティッシュを配っているのではないかと考えた。そこから着想を得て書き下ろした新作が、『ティッシュ配りの歌』である。駅前でティッシュ配りをしている小野は、近くで行われる路上ライブを密かな楽しみにしていた。ある日、いつものようにライブを聴きながら仕事をしていると、シンガーソングライターの武田が今日がラストライブだと告げる。ライブ後、小野は全く売れず意気消沈している武田に話しかけ、ライブを続けてもらうようにある作戦を実行する……。10分前後の短編というルールの中で制作したが、8分という制限の中でドラマを作っていた高校時代の感覚を思い出しながら作ることができた。


この作品のキャスティングにあたって、ティッシュ配りの青年・小野役は早大映研から起用したが、シンガーソングライターの武田役を誰にするか悩んだ。その時に力を貸してくださったのが、バンド「GOENDz」のボーカル・GOENDさんと、ギター・神田龍司さんだった。2019年の末、僕は自身が主催するライブイベントの企画を構想していた。というのも、高校時代に所属していた軽音楽部では、箱ライブという実際のライブハウスで演奏するイベントが時々行われていた。現役時代にそのイベントに出ることができず、軽音サークルも辞めてしまった僕はどうしてもライブハウスに立ちたいと思い、ならば自分でイベントを企画してしまおうという思考に至った。そして後に『似た者同士』に主題歌を提供していただくことになる先輩バンド・響々(ゆらゆら)の方を介して、Live House 湘南bitの方を紹介していただいた。その時やり取りさせていただいたのが、湘南bitのブッキングマネージャーも務めている神田さんだった。結局このイベントはコロナによって断念してしまったが、湘南bitのクラウドファンディングに参加するなど、細々と関係は続いていた。そして『ティッシュ配りの歌』を制作するということで、神田さんに出演を依頼した。しかし神田さんからはその時、少々立て込んでいるとのことで出演はできないと伝えられた。ただ、代わりに自分が所属しているバンド・GOENDz(当時はGOENDs)のボーカリストを紹介すると言ってくださり、それがGOENDさんとの出会いだった。GOENDさんは映画が大好きということで出演を快諾してくださり、さらには脚本から着想を得て、なんと主題歌まで作ってくださったのだ。素人の僕が作った脚本に本気で向き合ってくださり、誰に言われるでもなく主題歌まで作ってくださったことは、何よりも嬉しかった。僕もGOENDzさんの曲を聴いているうちにすっかりファンになった。そして作品に合いそうな数曲のインストゥルメンタルver.を神田さんに作っていただき、挿入歌として使用させていただいた。初日の撮影終了後、GOENDさんが路上ライブを披露してくださった。僕ら撮影スタッフが聴き入っていると、そこに1人の女子高校生が通りかかった。その女の子は初めはイヤホンをしていたが、路上ライブに気付くとそれを外し、だんだんとこちらに歩み寄ってきた。そして足を止め、夢中で曲を聴き始めたのである。ライブ後、女の子は投げ銭を入れ、GOENDさんに「めっちゃ良かったです!」と興奮気味に話しかけていた。その様子を見て、僕はこの女の子のためにこの映画を作っているのかもしれないと思った。僕はずっと、自分の作品で誰かの人生をより良くすることができたらと思って創作活動をしてきた。あの女の子が足を止めたのは100%GOENDさんの力だが、僕がこの作品を作ることがなかったら女の子はGOENDさんと出会うことがなかったと思うと、この作品を作って本当に良かったと心から感じた。


ただ関わってくださった方々には本当に申し訳ないが、ここでも正直に言うと、作品自体にはあまり手応えを感じることができなかった。これは完全に僕の責任だ。役者の方々とあまりコミュニケーションをとっていなかったこと、脚本スキルがあまり向上しないまま執筆してしまったこと、制作期間が短かったために脚本の詰めが甘かったことなどが原因として挙げられる。もしこれを読んでいる人の中で、携わってくださった方がいたら、重ね重ねお詫びします。本当に申し訳ない。ただこれらの失敗や、最高の主題歌をつけていただいたこと、素敵な出会いがあったこと、小道具を細部までこだわったことで講師の先生が褒めてくださったことなどは、自分にとって非常に大きな経験となった。また11月には、同じく映画学校の課題の一環で『あいも変わらず』という作品を監督した。「みつける」をテーマにした1分半の短い作品だが、僕にとってはとても印象深い作品である。なぜなら、一度手違いで全ての撮影データを削除してしまったからだ。最初から全て撮り直しせざるを得なかった僕は、今後は必ずデータのバックアップを取ることを心に誓った、はずだった。その後、次回作で全く同じミスをやらかしそうになるのは、また別の話。嗚呼、なんて学習能力の低い人間なんだ僕は……。

 

3年生になるとゼミが始まり、僕はドラマや映画などの映像作品を分析するゼミに入った。授業が一緒だった知り合いが何人かおり、とても居心地が良かった。作品分析をすることで優れた作品の深さや工夫を知ることができ、得た知識を自身の映像制作にも取り入れようと試行錯誤した。そして何より、オープニングトークという、トピックを一つ決めて全員で議論するという時間がとても楽しかった。答えのない問いについて考えるだけでなく、考えたことを発信し、自分と全く異なる考えを聞くことができる非常に有意義な時間だった。元同級生の一件で落ち込んでいた僕にとって、ゼミは大きなモチベーションとなった。


僕は『ティッシュ配りの歌』を早稲田映画まつりに出品した。1次審査を突破し、前作のリベンジを果たすことができたものの、2次審査で落選し、またしても本選出場の夢を叶えることができなかった。さらに僕は、この年の映画まつりの上映担当を担っていたので、自分の作品を落とした映画祭のために働くという屈辱を味わうことになってしまった。無論業務には責任を持って取り組んだが、実のところ、ここまで来たら大成功させてやるという意地が大きかった。特にコロナ禍の影響でギリギリまで有観客開催の可否が不透明だったため、初のリアルタイム配信をすることになり、僕はその担当だった。僕は配信技術を1から学び、1つ1つ手探りで作業を進め、何度もテストを重ねて開催直前まで調整を重ねた。その結果有観客で行うことができたまつりも、会場に来られない多くの方々が観てくださったリアルタイム配信も、無事大きなミスなく終えることができた。豪華なゲスト陣にも恵まれ、近年稀に見る大成功を収めた。ただそのゲストが解禁された時、僕は見覚えのある名前に目を丸くした。そこには、拙作『似た者同士』に多大な影響を与えた映画の一つ、『愛がなんだ』を監督した今泉力哉がいたのだ。しかも今泉監督は、僕がまさに通っていた映画学校のOBだった。僕は今泉監督に自身の作品を観てもらいたかったという思いが湧き上がり、本選に出場できなかったことを激しく後悔した。しかし実は、その思いは意外な形で達成された。映画まつりでは毎回、オープニング映像として本選出場作品の一部分をまとめた短いビデオを流している。そしてこの年のビデオは僕が編集したのだった。結果的に今泉監督は僕の編集した映像を観たことになったのだが、それで到底満足できるわけがない。むしろ映画まつりの本選で流れた僕の最初の作品が、本選出場作品のハイライト映像になってしまったという事実は、悔しさ以外の何物でもなかった。大成功だった映画まつりだが、僕にとっては苦々しい記憶となった。

第3章 大学3年生①

 

2021年1月。地元の成人式は無事行われたが、同窓会は中高共に開催されなかった。しかし僕が前年から作っていた同窓会ビデオをネット上で観られるようにしたことで、たくさんの同級生が高校時代を懐かしむことができたという反応をくれた。その裏で、僕はある企画を進めていた。


それは、高校時代のとある同級生と、その人に関する僕の経験に基づいたものだ。その人と僕は直接の面識はなかったが、クラスが近かったり、彼が人気者であったことから、一方的に認識はしていた。高校最後の文化祭が終わって間もない頃のことだった。彼は交通事故で突然亡くなってしまった。面識はなかったものの、同級生が亡くなったという事実に僕も動揺した。明日お別れの会が開かれるということが帰りのホームルームで伝えられた後、僕は放送部引退に向けて片付けをするため、放送室兼部室へと向かった。するとそこに一人の女子が訪ねてきた。亡くなった同級生と同じクラスだという彼女・Kさんは、彼のご家族に依頼され、僕にお別れ会の撮影をしてくれないかと頼んだ。僕はそういうことならと承諾したが、この時はまだ事の重要性を理解していなかった。お別れ会当日。カメラを片手に出席した僕は、そこに広がる光景を見て閉口してしまった。お焼香をする同級生の長蛇の列。その中には涙を流す人も少なくなかった。永遠に感じられたお経。泣き崩れるご家族。そして忘れもしない、棺にお花を入れた時の、お母様の言葉。「お顔を撮ってやってください」。僕は躊躇いながらも、つい数日前まで友達とはしゃいでいた同級生の動かない顔を撮った。霊柩車を見送るために移動した際、今までご家族と生徒の間を取り持っていたために感情を抑えていたKさんが、階段の踊り場で堤防が決壊したように咽び泣いているところを見てしまった。僕は先生に介抱されているKさんの横を通った。お見送りしてからのことは、正直覚えていない。放課後Kさんが放送室にSDカードを取りにきたことと、塾から帰る時、駅で同じクラスの友人に会ったことは覚えているが。乗客がまばらな電車の中で、僕は友人にこう言った。「僕は死を語るには甘すぎた」。僕はNコンに出す作品として、恋人が病気で亡くなってしまう男子高校生のドラマを作ったばかりだった。


それから約2年半。『初仕事』を観たことで、記憶の奥底に眠っていたこの出来事を思い出した。そして僕は思いついた。この出来事を映画にしよう、と。早速僕はKさんを介して連絡を取り、お母様の連絡先をもらった。お母様は息子を思い出す機会になればと、映画制作と取材に快く応じてくださった。ただどのようなものになるか想像ができないということで、僕は企画書と暫定版の脚本を作成し、お母様に送った。しかしこれらの書き方に問題があり、段々とすれ違いが生じていってしまった。僕は脚本は暫定版であること、取材を通して内容を詰めていくことを説明しようとしたが、ここでも言葉選びを間違え、お母様の逆鱗に触れてしまったのである。僕はお母様の気持ちを考えず言葉を発してしまったことを心から謝罪し、このままでは制作ができないと判断して企画の是非からもう一度考え直すことを伝えた。お母様からは、制作はしても良いが取材には応じられないという旨を伝えられた。

 

 

 

 


正直に言おう。僕は賞が欲しかった。

 


「死」というテーマに真剣に向き合おうとはしていたが、「死」と向き合った作品を作ることで、『初仕事』や新人監督特集で取り上げられた作品たちのように、社会的な評価が得られるかもしれないという極めて邪な考えを持っていたことを認める。映画監督として、表現者として、そして何より人として最低だ。僕は焦っていた。『似た者同士』が評価を得ることができず、自主映画で成功する道を模索した結果、早まった行動を取ってしまったのだ。企画を思いついた時、僕自身がこの出来事、および「死」という答えのないテーマに対して自分なりの答えを見出したわけではなかった。むしろこの映画を制作する過程で自分なりの答えを見つけようとしていた。だがそれがお母様にうまく伝わらず、それ以前にあまりにも身勝手な考えだ、結局は自分本位なのかということを厳しく批判された。お別れの会から2年半経っても、僕は事の重大さを全く分かっていなかったのだ。お母様に取材ができなくなった僕は、企画を実現させるか否かを考えるためにも、まずはKさんをはじめとする彼の友人に話を聞くことにした。その中で僕は、何も分かっていなかったことにようやく気付いた。事情が複雑で、単なる交通事故ではなかったこと。それゆえ「加害者」がいないこと。ご家族は今でも、遺骨を収められていないことなど。そんな状況の中で僕の身勝手なお願いに応じてくださったお母様に、僕は取り返しのつかないことをしてしまった。僕はそれ以降、頭の片隅でずっと、この企画のことを考え続けている。この企画をどうすれば良いのか。僕はどうすれば良いのか。

第2章 大学2年生②

 

この年の夏は母校・湘南高校に関する出来事が多かった。まず湘南高校100周年の記念映像の制作である。もともと現役時代に放送部による記念映像制作のお話を頂いていた。100周年を目前に控えたこのタイミングで再びこの企画を動き出すことにしたのだった。しかしコロナウイルスによって大幅な企画の変更を余儀なくされるなど、困難は降り掛かった。それでも様々な業界の第一線で活躍されるOB・OGの方々にインタビューし、現役生や現役時代の後輩の協力を得ながら、2021年に完成を迎えた。湘南高校のために何かできるということは自分にとっても嬉しいことであり、何より楽しかった高校時代に戻れるような気がした。次に同窓会ビデオのメッセージ動画の撮影である。2021年に同窓会が予定され、そこで上映するビデオの制作を依頼された僕は、お世話になった担任の先生などにビデオメッセージを頂くために同窓会幹事と共に来校した。同窓会ビデオはその先生方からのメッセージと、皆から集めた高校時代の写真を音楽に乗せて流すという内容で、現役時代に卒業する先輩を送り出す予餞会で上映したビデオと似ていた。僕はこの予餞会ビデオが大好きだったので、同じような映像を再び作ることができたのはとても楽しかった。


そして忘れてはならない、Revərsiのラジオ編集だ。Revərsi(リバーシ)とは高校時代の同級生の女子2人組によるツインボーカルユニットで、僕と同じ軽音楽部に所属していた。軽音部の中では珍しくオリジナル曲を制作しており、圧倒的なセンスと歌唱力を武器に校内で絶大な人気を誇っていた。僕は2人の才能に惹かれ、ある時彼女たちに曲のMVを制作しないかと持ち掛けた。2人は僕の提案に快く乗ってくれた。僕は放送部で培った撮影技術を総動員して制作に打ち込んだ。そうして完成したのがRevərsi初のオリジナル曲「道」のミュージックビデオである。現在に至るまで、僕が監督した唯一のMV作品だ。YouTubeに公開後瞬く間に拡散され、楽曲と共に今でも多くの人に愛されている作品になった。さらに今度はCD制作を持ち掛け、高校最後の文化祭で無料配布をしないかと提案した。2人は快諾してくれたが、僕はNコンに出品する創作ドラマの制作も同時並行で行うという暴挙に出たため、超が付くほどの多忙な日々を送ることになった。しかもそのドラマにはRevərsiの一人が出演することになっていたり、3人共掛け持ちしている他の部活での発表もあったりと、地獄のような日々が幕を開けた。当時の僕にはCD制作やミキシングに関する知識など全くなかったので、インターネットで1から作り方を学び、放送部で得た録音技術を生かし灼熱の放送室で曲をレコーディングした後、他の部活からPCを借りてパッケージングを行った。より本物に近づけるために歌詞カードも作成し、マット紙を購入するなど自分なりに細部までこだわった。文化祭が近づくにつれて作業は深夜まで及び、一度廊下で倒れたこともあった。それでもRevərsiの2人をはじめ、他の放送部員の助けもあって無事CDは完成、文化祭当日を迎えた。すると1日目は開始1時間で即完、2日目も午前中で完売という快挙を成し遂げ、見事約200枚を捌き切ったのである。僕は2人と言葉にならないくらいの喜びを噛み締め、分かち合った。これが僕のかけがえのない青春のハイライトである。そんなRevərsiも卒業を機に第1章を「閉幕」し、しばらく活動を休止していた。しかし2020年の結成記念日に、突如ツイキャスでラジオ放送を行ったのである。思わぬ出来事に僕らファンは歓喜した。後日Revərsiにラジオの感想を伝えると、その放送の文字起こし版を作成したいと考えている、と告げられた。僕は真っ先に編集をやらせてくれと頼んだ。またRevərsiと活動ができる、Revərsiのために何かすることができる。僕にとってこれ以上ない喜びだった。僕は頼まれていた他の動画編集を全て中断して、朝から晩までひたすら文字起こしに明け暮れた。そして2人に送信し、2人の確認を待った。しかし待てと暮らせど確認の連絡が来ない。忙しいのかな、と思ってしばらく待っていたが、その後もいっこうに連絡が来ない。1ヶ月が過ぎ、流石に痺れを切らして催促をした。ただその時の文面が誤解を招き、口論に発展してしまったのだ。僕は全ての作業を棚に上げて編集したために、その熱意を2人が同じように返してくれないことに腹が立った。しかし2人は本当に確認ができない程忙しかったらしく、また僕の事情も2人に伝えていなかったので、互いに理解が及ばなかったことが口論の原因の一つだった。あの青春の日々を再び取り戻そうと躍起になり、盲目的になってしまっていたことに、この時の僕は気付かなかった。動画が公開された後、冷静になった僕は謝罪の文章を送り、Revərsi側からも謝罪が来て事態は収束した。1年前の文化祭で感じた、もうあの日々には戻れないという事実から目を背け、湘南高校と関わり続けた僕だったが、このRevərsiとの一件でまたしてもこのことを強烈に突き付けられてしまったのだった。


さて、オンラインで開催された早稲田祭の映研上映会でも流してもらった『似た者同士』。順調かに思えたが、その年の早稲田映画まつりの1次審査で落選してしまう。思い入れがある作品だったために、この結果には非常に落胆した。同時に、社会的な評価が得られなかったということに焦りを感じた。なぜならコロナ禍が始まった頃、国立映画アーカイブで行われた新人監督特集に足を運んだからだ。前年の映画まつり以来、自主映画への関心を高めていた僕にとってこの特集は絶好の機会であった。そこで流れていた作品はいずれも、名だたる映画祭で受賞を果たしたものだった。僕は自主映画の道で成功するためには、賞を取ることが重要であるということを学んだ。さらに11月に行われた東京国際映画祭に、映研のOB・OGの方々が制作した『初仕事』という作品が上映されるということで、特別にご招待頂いた。この『初仕事』という作品が非常に素晴らしかった。アシスタントカメラマンの主人公は先輩の知り合いからの撮影依頼を受けることになるが、それは亡くなった赤ん坊の写真を撮影してほしいという内容だった。初めは躊躇う主人公だったが、被写体と向き合ううちにその撮影にどんどんのめり込んでいってしまう、というストーリーだ。この作品を観た数日後、僕の頭にある考えが浮かんだ。それはのちに、僕を狂わせることになるのだった。

第2章 大学2年生①

 

2019年の年末、紅白を観ていた僕はとあるニュースを目にした。「中国で未知のウイルス発見か」。この時はまだ、海を隔てた国での出来事という程度にしか思っておらず、まさかそのウイルスが瞬く間に世界中を脅威に晒すことになるとは思いもしなかった。


新型コロナウイルスと名付けられたそのウイルスは日本国内でも猛威を奮い、緊急事態宣言が発令されるなど、不要不急の外出自粛を要請された。自分を含めたくさんの人の日常生活が根本から一変し、自らの生き方や人生と向き合わざるを得なくなったと思う。春休みは感染対策をしつつH君と山陰・山陽を旅するなどのことができていたが、事態は悪化の一途を辿り、新学期はオンライン授業に切り替えて開始された。キャストの都合でゴールデンウィークに撮影を予定していた『似た者同士』も、サークル活動の停止によって再び延期を余儀なくされた。家に居ながら何かできないかと考え、星野源の「うちで踊ろう」に映像を付けてみる、オンラインで友人と通話して悩みを共有する、映研に来た依頼を通してYouTubeのバラエティ動画の編集をする、月15本をノルマに映画を観るなどをして日々を過ごしていた。特にオンラインを活用することで違う学校に進学した友人と久々に話ができ、その点は非常に良かったと思う。またそんな日々を過ごすうちに、「考える余地」に対する自分の思考にも変化が訪れた。コロナウイルスの流行によって多くの人が答えのない問いを抱えることになった。僕は考えることの重要性を確信したが、同時にこの混沌とした状況で答えのない問いに向き合い続けることは精神的にとても負担になることも分かった。その際に重要となるのが、あまり考えることなく楽しめるエンターテインメント性だと僕は結論付けた。そのように考えたきっかけとして、SNS上で心無いツイートを見かけ、とても胸糞が悪くなったことがあった。何か底抜けに明るいものが観たいを思った僕は、『翔んで埼玉』を観た。とても面白かった。もちろん『翔んで埼玉』にもテーマ性はあるのだが、その時の僕はそんなことを考えずただただ楽しんだ。正解のない問いについて思いを巡らせることも大事だが、そのためにはエンターテインメント性とのバランスが重要であると気づいた瞬間だった。


そうしているうちに夏休みが近くなり、活動制限の動向が注目されたが、感染者数の減少に伴ってサークル活動が部分的に再開されることになった。僕は急いで『似た者同士』の撮影に向けて準備を進めた。そして迎えた夏休み。僕はいの一番に撮影を敢行した。感染対策を徹底して行い、1日、また1日と慎重に進めていった。しかしここで大きな問題が発生する。感染への不安からキャストの一人が降板してしまったのだ。自分なりに対策はしていたものの、撮影を進めるうちに緩みが出てしまったのかもしれない。撮影を一旦中断し、すぐに代役を探すと共に撮影方法を見直し、一部のシーンをリモートに変更した。その時ZOOMの背景を利用した効果的な演出方法を思い付き、結果的に困難をバネにしてより良い表現を見出すことに成功した。そうして無事クランクアップを迎え、高校時代の親友に音楽を、H君にキャッチコピーを付けてもらい、遂に2本目の監督作『似た者同士』が完成した。恋人のタクヤと同棲しているユウは、映画監督を目指しているがヒモ状態のタクヤに手を焼いているものの、彼を思うあまり強く言えないでいた。そんな状況に業を煮やしたユウの妹アヤは、ユウを家から連れ出してしまう……。主題歌に高校時代の先輩のバンド・響々(ゆらゆら)さんの「あの日の音」を提供して頂いた。YouTube上にURL限定公開したところ、1週間で200回再生を超え、多くの方に観て頂くことができた。構想から約1年、スタッフやキャストの方々をはじめ多くの人に支えられて完成した、僕にとって過去最大規模であり渾身の一作だった。